いま、いじめの問題が、今更のように大きく取りざたされている。誤解を得ることを承知の上で言わせて貰うことであるが、今更のことである。内在していたものが、内で処理しきれずにただ、外に現れただけのことである。別に、取り立てて新しく考え直すことではない。
いじめなんてものは、人間の本能に根付いているものだと思う。弱者に厳しく、強者に弱く。長いものには巻かれてしまうのが、流される側の人間としては、当たり前のことである。学校という、コミュニティの中でも当然それはあるわけで、何が理由かは難しいが、コミュニティがあれば、当然、強者と弱者という関係も生じるのだ。そして、強者は弱者に対して厳しい、それこそが、自己のアイデンティティにとって重要なことであるからである。
しかし、ここに至るまでに、何故に表面化しにくかったのであろうか。それは、教師の権威というものに帰依すると思う。悪いが、子を持つ親として言わせて貰えば、自分より年下の人間に対して、権威を感じることは出来ない。そして話しぶりから察する、レベルで自分を下回れば、尊敬という概念が薄れることは、必然である。
ならば、何かあった時に、文句の一つも出てくるのは当然である。権威を感じられない人間には、いくらでも強くでられるのだ。……そんな態度は、子供にも当然明白である。親の態度を見ることで、子供も、先生なんて尊敬するに値しないと、感じるであろう。親の態度は、きっと重要である。
そんな親を大量生産した、個人的主義的教育が悪いと帰結することも可能ではある。それを言っては自己を否定してしまいかねないので、言いませんがね。でも、教師という存在が、誰にでもなれる存在にまで成り下がってしまったことは、弊害であると言うべきだと思う。やっぱり、誰にとっても、教師は友達ではなく師であるべきなのだ。師を蔑む弟子はいないように、学校でも本来そうであるべきなのだ。
だから、いじめを問題にする前に、親の教育を見直すべきである。師という存在が如何に有り難いかどうかを知らしめる必要がある。
……と思うなぁ。家庭内の教育って結構重要。娘が微妙に反抗期な感じだし。