良い演奏会とは。

 少しばかり難しいことを書くかもしれないし、書かないかもしれない。これは私の勝手に思ったことであり、大してすごいことではない。アマチュアの人間の音楽に対する姿勢や思いに少しだけ考えさせられる物があったりしたからである。

 まず、演奏会とはその吹奏楽のバンドにとってメインとなるべき活動である。コンクールと違って、自分たちが運営し、集客し、聴いてもらう舞台を作り上げるのである。音楽は人に聴いてもらはなくては評価が貰えないのであって、練習だけでは自己満足である。

 演奏会とは何か? 演奏を*1お金をいただいて聴いてもらう場である。演奏者と、聴衆は常に対決する。百円ですら払いたくなかったと思わせるような演奏会になるか、一万円払ってでも聞きたい演奏会になるか、満足させるか、させられないか、それはとても大切な要素で、満足させられる演奏会にはちゃんと聴衆が集まり、増える。

 演奏は自己満足であってはならない。音楽としての成功とは何かと簡単に考えるに、奏者も聴衆もその感動を共有できた時、それを成功と言えるのだと思う。細心の注意を払って、出来る限り良い演奏を聴いてもらう、少なくともクラシックの舞台なんかは積極的に笑いを取るような物でもないし、静かな感動の積み重ねこそが大切である。

 ただ、そこに至までの最低限クリアしておかなくてはいけない問題というのがある。それは演奏者自身の鍛錬だ。聴衆に音を聞かせなくては意味がない。しかも、楽譜的に最低限間違えのない音が指揮者の前で出せること、それは本当に絶対的な条件だ。指揮を執る者が音楽的でない基礎的な部分での指導に、時を奪われると言うことは最低限あってはならない。

 演奏者の最低限出来なくてはいけないこととは何か、ちゃんとした音を出すことである。出だしから終わりまで羊羹のようにちゃんと詰まった音。音程の制御された音。基礎中の基礎であるがなかなか出来る物ではない。私の出来ていなかったし、出来ない。ただ、理想とすることは出来る。

 環境が人間を育てるという。この場合言う育てるという言葉は、多分、文字通りの意味ではないだろう。常に、良い環境を、良い楽器を、そういうところではあまりにも甘やかされすぎて成長が見込めないような気がする。良い楽器は自分が上手くなってしまったかのような錯覚を覚えさせてしまう。確かに、自分にあったレベルの楽器は必要であるが、それは、それが使い切れてこそ言える言葉である。楽器が鳴っていないのにいい音が出るはずがないのだ。

 同じ楽器でも、演奏する人間が変われば、音が変わる。つまり、それはその人の技量によるところが大きいと言うことだ。音を出すことから始めなくては、何にも成らない。人の心に届くためには少なくとも音が前に出て行かなくてはダメなのだ。上辺だけの音でなく、真の通った音が。

 クラシックを楽しんで聞かせるというのはなかなかに難しいことである。明確なわかりやすさがそこにはあまり無いからだ。ただ、人に聴かせるからにはプロ意識という者を持たなくては成らない。常に自問自答しなくてはならない。
“この演奏は人に聴いて貰える者なのだろうか?”

……と。

*1:だいたいの場合