備忘録

 逃げの対象として、自分は文章を書くということが上げられると言うことに、最近気が付いている。しかもどうでも良い、何も考えていない文章になりつつある。まあ、それは、ここでブログとか言って、適当な日記やら、日々雑感やら、そういった文章とは呼ばない、散文、そう散文を書いているからであると思う。

 今日、久しぶりに自分の書いた文章を頭から少しばかり読んだ。この場合の文章は、まともにお話を書こうと思って頓挫している文章の最初の方である。良くもまあ原稿用紙200枚近くも書きためたモノだなぁと、今となっては感心する。ついでに言えば、それだけ書き進めておきながらも、物語的にはSEED並に遅々として進んでいないという情けない状況もある。

 基本的に説明が好きだったりすると思う。……設定好きと言うべきなのだろうか? 色々と頭の中で世界観を作り上げていくことが楽しいのである。背景にはこう言うのがあって、だからこういう政治体系になってしまっている、とか、歴史的な感じでいい加減に作り上げていくのは、結構楽しいモノである。世界史やら日本史やら昔好きだったなぁ。その中でも特に興味をそそられた存在は、宗教であったりもするわけであるが、まあ、それはどうでもいい話。

 世界史や日本史、ひっくるめて歴史を学ぶ意義というのは、自分なりに考えるに、過去への反省にあるのだと思う。必ず押さえるべきポイントとしてあげられるのは、その文明がどのように発生したのか、と言う点と、何故に滅んだのかと言うことである。細かい年表を覚えるのが歴史ではないし、一つ一つの条文を丸暗記するのが法律ではない。……無関係なことも言ったりしていますが。

 歴史にはある一定の流れというモノがあって、進んでいるのであると言うことを認識することが大切であると思っている。簡単なのは江戸幕府。華は3代家光でそれから先は右肩下がりという印象がどうしてもぬぐえない。……庶民の文化のレベルというモノはそうではなく、徐々に熟成されていくモノである。ただ、それと政治的な規模での国というモノの栄枯盛衰を同一と見ることは出来ないだろう。一時的な改革者が出て、少しの回復を見せ、また下がっていき、また改革者が出る。そういった感じで、幕府自体が腐敗していった、と私は見る。

 そんな人はいないと思うけれど、歴史家でもないし、そういう勉強をずっとしている人間でもない歴史観なのでまあ適当に読み流してやって貰いたい。

 江戸幕府を例に挙げたが、室町幕府鎌倉幕府も平安京も平城京も何というか、古事記からひもとかれていく神話の世界ですらもそういう何となく一定の流れがあるようにしか思えなかったりするのです。だから、歴史はその流れを知り、その先を読むという実は革新的な勉強でもあったりするわけです。

 ……などと言うことはどうでも良かったはずなのですが、何でこんな事を書いているのでしょうか?