早く寝た。早く起きた。

早く寝た。早く起きた。目が覚めてやることもないので、いろいろネットをさまよっていて、最果タヒのツイートが目に入って、ブログを読んだ。おお、はてなブログかぁ、なんて思ったので、読んでみると、やっぱり、分かっていたことだけれど、朝から読む内容ではないような、でも、朝だから読む内容でもあるような、早朝なのか深夜なのかわからない時間の更新は、きっと、寝る前に向けてなのか、起きてすぐ読むためなのか、そこまでは考えていないのか、どうなのか。そんなくだらないことを考えてみていたら、とりあえず布団から抜け出して、ブログというか、日記というか、記録を残しておきたくなった。

 

ちゃんと読んではいないが、SpaceXISSに到着したようだ。民間初とのことだが、さて、この日本では小さめの記事が、世間を大きく動かす出来事になっていくのだろうか。宇宙時代はこんにちわ、するのかなぁ。民間での事業という事は、やはり、不採算では収益モデルとしてはやっていけないわけで、いずれどこかで収益性を確保していくわけだ。宇宙に行けるかなぁ。とはいっても、狭い空間に人をたくさん詰め込んで大量輸送したところで、今のところ、遊覧飛行をするだけの話で、旅、というには足りない。まだ、コロニーもなければ、そこに住むことが出来ないのだ。

 

でも、夢はある。いつか、コロニーが建設されるのだろうか? いつか、月に町が出来るのだろうか? 子供のころに宇宙の本で読んだ未来は、目にすることが出来るのだろうか? ちょっと無理かなぁ、ガンダムは歩き出すのだろうけど、レイバーも動き出さない世の中で、ロボット物のSFの世界はなかなか到達に至らない。とはいっても、やはり、そういったはたから見たらバカみたいなものというのは、技術を先に進ませるはず。

 

そんな朝ですが、今日は朝から何を食べようか、食べさせようか、ああ、ダービーだななんて思って、3時40分にちゃんとテレビの前に座って観戦できるだろうか。無敗二冠の達成を見ることが出来るのか。すごく楽しみではあるけれども、ダービーは世の中的にも、固く決着してもらいたい、せいぜい、コントレイルがサリオスに逆転されるくらいの固さでいいと思う。大敗とかは競馬ファン的に盛り上がらない。固い決着のダービーをひっくり返すような目黒記念を私は待っている。それで、バランスが取れる。ダービーで無敗三冠馬の夢をみて、目黒記念では配当で夢をみる。おお、JRA的にもいい感じの夢の見せ方ではないか。なかなかいい帰結じゃないかこの夢の見せ方は。

 

つらつらと書いてみているのだけれど、録音してあった堀江由衣のラジオが終わってしまう。こんなことを書く事に30分も使っている。しかし、楽になったものだ。子供は大きくなった。一番下の子がもう10歳。ある程度の事は自分で出来るようになった。子供たちも自立心が芽生えてはきたのだろう、つまらない事には付き合いたくないらしく、出かけようといってもついてこなくなった。この新型コロナウイルスの世の中ではその方が好都合であったりはする。お出かけは最少人数で社会的距離→身体的距離→フィジカルディスタンシングを保って、の世の中であります。

www.tokyo-np.co.jp

さびしくもあり、うれしくもあり。さて、やっと小学校中学校高校と学校が日常に戻ります。新学期です。どうなるかなと思いつつも、コロナとの日常が始まっていきます。仕事の手は止まらなかったので、我が家では子供が再スタートのみですが、いままで、段階的に進んできた日常をどの様な形で進めていけるのか、想像力を働かしていかなくてはいけません。敵は目に見えず、症状も明らかにせずに迫ってくる敵ですからね。

 

自分の文章構成力に力がないと感じることは多々あるのですが、特に思う事としては、接続語の使い方のバリエーション、または、同じ言葉の繰り返しの使用に関してです。絶望的に表現力の幅がない。たくさんの語彙を持てていない自分は、情緒的な文章とはやはりお近づきにはなれない関係にありそうです。報告文やまとめにはそういった感情の部分は不必要です。事実を時系列になんて当たり前のことで、要はそれが頭の華夏で整理できていればそれなりのものが出来るはずです。……ほらまただ、どんな言葉で接続していこうか、言葉を選んだことで、思考が止まってしまった。ここでは、逆接の接続詞を使って、情緒的な自分の気持ちなどを吐露する文章は、感情の機微などを表現しなければならず、日常的に使える語彙力がないために、その部分詰まってしまう。

 

日常的に書いていると冒頭の最果タヒの様にうまく、少なくとも私にとっては、上手く表現が発信ができるものですかね。久しぶりにまとまった文章をつらつらと書いたけれども、あと50字書いて2000字までに持っていきたいなぁ、と思っている。原稿用紙にしてたったの五枚程度、昔ならそれこそ考えながらでも書きあがった量である。とか書いていたら、埋まった。

 

今はここまで。またね、自分。