なんとも、考えてしまう。酒を飲んで、友人の近況を読んで、情けない、向上心のかけらももちえない、小さな自尊心にだけしがみついて、心が固くなっているような自分に気づく。ただ、求められることに、従順に進んでいっていたころと、何が変わったのだろうか。今の自分に何かが足りないような気がする。何かが足りないのか、柔らかな何かが硬質化してしまったような。悲しいかな、年を取って、柔軟さというものはなくなってしまっているような気がする。自分の小さな自尊心と、自分が何とか作り上げてきた今の場所に、縋り付くように生きている。仕方ないと思う。守るべきものを守っていかなくてはいけない。自分の仕事のやり方は、人と人をつないで、何とか全体としてよい関係を築いていくこと。仕事なんて、誰しもがやりたいわけではない。だからこそ、少しでもほんの少しでも気持ちよく、相手が楽できるように、受け渡す側が気持ちよくできるようにそういう思いで、仕事を回してきた。ただ、今の今となっての会社は全体最適ではなく、個々全てを見ていくようである。会社にも得意先にも取引先にもそのすべてにおいて、いい顔はできないようである。誇れるもの、語れるべき自分がいない。あなたはどの仕事をしていて、どういったことが趣味で何が得意なのか。いまとなってはただの劣化した知能で、前を見ないで下を見て歩んでいるだけなのだろう。書くことは今、特にやっていない。高校生の頃に考えていた物語はいつになっても完結できないでいる。書いていないし、早く帰れば飲むだけだし、考えることは面倒くさいし、仕事で叩きのめされて、医者にかかれば間違いなくうつ状態だろうし、そうでなくても適応障害には間違いなく診断してもらえるだろうし、でも、会社内で戦い続けなければいけない。そのために家に帰って、リフレッシュする。いい家だと思う。我が家だけれど。主張は強いしみんな集まればうるさい。だけど、家族同士、会話ができる。全員でそろってテレビを消してご飯を食べて、そのままテレビをつけることなく何時間も話ができる。それってきっと素晴らしくて、利害がない所にいるということは本当に安らぐ。ホッとする。ここにいて、故郷を出たここにいて、落ち着く場所はきっとここなのだろう。海はないし、空は明るい。雪は降らない、外は乾ききって寒風が吹く。そんな中で、かろうじて生きている。友人は先輩で同僚。友人と呼べる人との距離感を作るのは苦手で、会社を超えた付き合い、集まりを超えたそれ以上のつながりを持つこともない。自分一人では生きていない。やっぱり頼る人は必要だ。しかし、今の自分を支えているものは何だろうか。仕事、が結局は自分を作っている。趣味はない。作る相手がいなければ、食べてくれる人がいなければ、料理だって結局しない。なんでって、自分で作る料理は自分で作ったものだから、自分の知らない味にはなってこない。美味しくはできるが、自分の手の内のものだ。自分が食べる物は、人が作ったものがいい。だから、外でご飯や、コンビニ、スーパーのお惣菜も好きだ。ごはんは、人に食べるために料理をする。まあ、それでも、納豆巾着は自分で作るから、それは、自分がどうしても食べたくて、家でなければ食べられないものなのだろう。居酒屋でしか出てこないような品物だから、居酒屋になかなか行けないこの頃、しょうがない話ではある。自分を支えているのは、きっと、今までお世話になった、協力会社の方々だろう。この人たちに恥じることない仕事はしていきたい。自分の会社での評価とか、役職とか、見え方とかは本当はどうでもいい要素で、私は、会社を背負って仕事を出しているけれども、仕事を出している相手とは個人として恩に着ているし、恩返しを受け続けていると思う。貸しとか借りとかそういった言葉でも十分だろう。でも、その人たちに迷惑だけはかけたくはない。そういった意味では、私は、人と人とでつながっているつもりである。まあ、肩書がなくなればそんなわけはないし、やっぱり、相手は会社と付き合っているのだけれど、でも、やり取りしているのは、人である。だから、その人たちが私の依頼なんかを受けてくれるのは、なんだかんだ言って、人通しの付き合いが長いから、踏み込んでいける部分を持っているんだ! って強く思いたい。営業とも信頼関係。協力会社とも信頼関係。一番信頼関係が構築できていないのはきっと、自社工場のメンバーだろう。結局、外にお願いをし続けてきた私は、内部の面倒くささを心底は理解できない。仕方がない、もう、14年もおんなじことをやり続けている。いろいろと間違い続けている。でも、自分に特になるようには仕事をしていないつもり。それぐらいしかない。あまりに日記過ぎて仕方がないが、書いていくことで、なんとなく自分が自分の中で折り合いをつけることが出来る。大事である。さて、日々のラジオを聞こう。今日はペコパだ。